Z 姉弟




その日のことは、おぼろげに覚えている。
「あなたの弟の武士よ」
まだ幼稚園にも上がらない小さな男の子を連れてきて、母はいった。
「わたしに弟ができるの?」
小学生だったわたしはそんな事をいったような気がする。
そのときの母の言葉だ、今でもはっきりと耳に残っているのは。
「ええ。武士は貴子のほんとうの弟なのだから、仲良くするのよ」

そして、ボクシングのこと――
スポーツ好きでもない父が、わたしにボクシングを習わせたのはどうしてだったろう。
――護身術として、娘に格闘技を身につけさせたい。
と、わざわざ学生時代の友人だった元プロ選手に頼んでまで…。
ボクシングはとても面白かったけれど、やはり女の子がひとりで習っているのは、子供ごころに恥ずかしかった。
さいわい武士も興味を示したので、さっそく両親に頼んでみた。
「ねえ、おとうさん。武士もいっしょに習っていいでしょ?」
そういうと、父はなぜだかとてもこわい顔をした。
「だめだ」
「どうして? ピアノはいっしょに習ってるのに、なぜボクシングはいけないの?」
どうしてもだめだ、と母までがいい、頑として許してはくれなかった。
――武士は、男の子なのに。
ふつうは逆ではないだろうか? わたしがボクシングをやりたい、というのに反対するならともかく…。

わたしは両親にないしょで、武士にボクシングを教えこんだ。
生まれつき天才的センスを持っていたのか、武士の上達は目覚ましかった。
そう、姉のわたしがそら恐ろしくなるほどに…
中学にあがった武士は、両親には音楽部に入部するといつわってボクシング部に入った。
これももちろん、わたしとふたりで共謀したこと。
秘密を守るために、大きな試合の出場はなるべく避けていたのだけれど。
入学当時、すでに三年生のレギュラー部員すら敵ではないほどに完成されたテクニックを身につけていた
武士を、まわりが放っておくはずもなく――
二年生のときに県大会で優勝したあたりから両親も疑いはじめたらしかったが、その年の全国大会…
チャンピオンカーニバルで注目されたのが、決定的だった。
なにせ、武士が準優勝のトロフィーを受けた表彰式の時――
全米Jr.チャンピオンのシャフトが飛び入りで派手なパフォーマンスを見せたことを、マスコミが大きく
取りあげたのだから、どうしようもない。
テレビで何度もシャフトのVTRが流れるたびに、トロフィーを持った武士の姿まで画面に映るんだもの。
いくら両親がスポーツにうといと言っても、バレないほうがおかしいわね。
まあ、そのシャフトのおかげで、全国に注目された『日米決戦』に武士が出場するのを、さすがに両親も

止めるわけにはいかなかったのだけれど。
――これきり二度と、ボクシングはしない。
そう両親に約束してから、けっきょく何度グラブを持って高嶺くんたちのところへ駆けていったのかしらね…

あの子。
そして…あの子だけでなく、わたしも。
高嶺くんと菊さんには、いろいろなことを教わった…


ふいに貴子は顔をあげた。
玄関のほうで、書生が来客と言い争っているようだ。
「だから、先ほどから申しあげているとおり…」
「ここは河井の家だろうが… おめえじゃ話になんねえ、河井のねえちゃんを呼んでくれ、ねえちゃんを!」
いらだったような声に、貴子は聞きおぼえがあった。
――日本Jr.の、香取石松。
(チャンピオンカーニバルの準決勝で、武士の顔にはじめてパンチを入れた、足の短い子だわ)
昨日の電話で武士のことを心配した高嶺竜児が、元日本Jr.の友だちを連れて会いに来てくれたに違いない。
なつかしさに思わず立ちあがろうとして、貴子は動きを止めた。
――貴子、おまえはけっして阿修羅のことには関わってはいけない。
子供のころから、何度も両親に聞かされてきた言葉が胸をよぎる。
その胸に、貴子は手をあてた。
――痛い…。涙が出てしまいそうなほど…。
泣いてはいけない。そう言いきかせて、深呼吸をする。
そう。高嶺くんたちを巻きこんでしまわないためにも――
意を決して、貴子は障子を開けた。
(河井武士という人間は、当家にはおりません)
弟のかつての友に、そう告げるために。



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