Y 血と水
――ここは…?
ぼくの部屋…じゃないようだから、合宿所か。
いや。試合にはもう出ないから、そんなはずはないし…。
それより学校へいかなきゃ…っと、今日は日曜だっけ。
休みの日にしても、少し寝すぎてしまったかな。
あまり遅いと、ねえさんが起こしにくるはず……
「目がさめたか、孔士」
凄牙の声に、武士はハッと身を起こした。
「ぼくは…」
昨日からのめまぐるしい出来事が、いまだに現実だとは信じられない。
…ただ。
――もう二度と、ねえさんが起こしにきてくれることはない。
その事実だけが、鋭く胸を刺した。
心がからっぽで、涙すら出ない…この空虚な感じを、絶望と呼ぶのだろうか。
「食事を用意してあるが、食べるか」
「いや…。いい」
「そうか」
とうてい食事をする気にはなれなかったが、健康的な空腹感をおぼえているのに気づく。
それに、ひどく喉がかわいていた。
「水…。水を、くれないか」
凄牙から受けとりかけた木杯に、武士は思わず凍りつく。
おそるおそる、中身をのぞきこむと――
忌まわしい血などではなく、遅い朝の光にきらきらと輝く透明な水だ。
ひといきに飲みほすと、ようやく人心地がついた。
ジャラッ――
なれない感触に手をやると、首に巻きつくものが触れた。
数珠を模した、阿修羅の首飾りのようだ。左腕には、青銅の腕輪。
阿修羅一族の闘衣を身にまとっているらしい。
「ああ…服が汚れていたので、勝手に着替えさせておいた。気にさわったらすまない」
「……」
「なあ、孔士」
凄牙が、つとめて明るくふるまう様子でいった。
「気分転換に散歩でもするか。オレが総本山のなかを案内する」
「…ぼくが脱走するとは考えないのか」
「脱走して、どこへいくというのだ」
凄牙は押し黙ったまま動こうとしない武士の枕元にかがみこむ。
「少しでも動かないと身体がなまるぞ。さあ」
「さわるな!」
肩に置かれた手を、反射的に激しく払いのける。
凄牙の驚いた顔を見て、武士は我にかえった。うつむいて額に手をやる。
「すまない…まだ、気が昂ぶっているようだ」
「気にするな。昨日のことだ、当然だろう」
――そうだ。ぼくは…。
昨夜の記憶が頭をよぎり、おそるおそる立ちあがる。
身体じゅうのどこにも痛みはない。
たしか、もうろうとする意識の中で…阿修羅の戦士たちに手ひどく痛めつけられたはずだ。
だが、いま見れば手首を縛っていた鎖のあとすら消えている。
――やはり、ほんとうに…
ぼくは、身体の芯から阿修羅一族の戦士になってしまったんだ…。
「ここが、宝輪門」
門を出ると、目のまえに広い河が横たわっている。
向かって右手のすぐ先は瀑布となり、はるかな滝壷へ吸いこまれるように落ちている。
「オレが守りをまかされた場所だ。いい眺めだろう」
「中国の山水画のようだな」
うつくしい、というと、凄牙はうれしそうな顔をした。
流れの中央に巨大な平石の中洲があり、両岸からの飛び石がそこに続いている。
「ここまで上ってきた敵は、あの闘技場で足止めをする。それ以前に、下の門を守る邪鬼と妖鬼豼が
通すまいがな」
「その、敵とは――」
「いまは考えるな、孔士」
かつての朋友を敵とするのは心苦しいだろうが、と凄牙はいった。
どれほどのつわものでも、山頂の阿修羅門までたどり着くことはできないだろう。
おそらく、おまえと直接闘うことにはなるまい。
それに、なにも命まで奪おうというのではない。
かりに卑怯な闇討ちでカイザーを奪ったとしても、カイザーは我らを正当なあるじとは認めないだろう。
真剣勝負で闘い、倒してこそ意味があるのだ。
そう、凄牙は語った。
「一族の悲願が、ようやくかなおうとしているのだ。オレは、その役目をはたせることを誇りに思う」
「一族――阿修羅の、血か…」
「血は水よりも濃い。友情など――この河の水よりも薄い」
凄牙はいった。
オレは生まれつき異常回復力――不死身の体質をそなえている、一族の中でもまれな子供だった。
あるときオレは山で友達と遊んでいて、岩場に転落して大ケガをした。
血まみれのオレを見て、親友だと肩を組み笑っていた遊び仲間たちは、どうしたと思う。
オレが助からないと思ったのか、親や学校に知れることを恐れて逃げだしたのだ。
幸いにも体質のせいで命びろいをしたが、オレは「一人で遊んでいて落ちた」と言い張った。
友情――というものを、信じていたからだ。
だが、現実はちがった。
かつての友はオレを恐れ、口をきこうともしない。そればかりか、かれらの流した噂がまたたく間に
広まり、オレは村じゅうからバケモノだと後ろ指を差されることになったのだ。
「わかるか。友などという甘ったるい言葉を口にする者の友情など、その程度のものだ」
武士は首を横に振った。
「そんなものは…ほんとうの友情ではない」
「では、ほんとうの友情とは何だ。高嶺たちがそれを持っていると言いきれるか」
「……」
「この話はよそう」
凄牙はそういい、ふっと笑った。
「今いったことは忘れてくれ。おまえだからつい話してしまったが、一族の仲間にも…誰にも話したことは
なかった」
「凄牙…」
何もいえない武士を見て、しばらく言いよどんでから、続ける。
「…じつは初めて会ったときから、なんとなく虫の好くやつだと思っていた。ようやく探しあてた『孔士』が、
おまえでよかったと…オレは思っている」
「…ありがとう」
この里に来てからはじめて、武士は自然な微笑をみせた。
「キミとは、いい友だちになれるかもしれない」
その言葉に、凄牙は首を横にふった。
「友ではない。血の絆で結ばれた、同志だ」
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