]Y 友
だ…だめだ…。
せっかく、みんなが身体を…命を張って…
ここまで、オレを来させてくれたのに…。
やっぱり、オレ…オレ――殴れないよ。
ごめん…みんな…。ごめん、河井さん…。
も、もう…痛みすら感じられなくなってきた…。
オレは…なぜここで、こんなことをしてるんだろう…?
こんな、つまらないこと…。
ね…ねえ…そうだろ、河井さん…。
チャンピオンカーニバルの時は、面白かったな…。
あ、あのときのライトアッパーの方が、ずっとずっと強烈だったような気がするよ…。
ああ。
オレがこのまま眠ってしまえば終わるのかな――
で…でも、立たなきゃ…。
何のためにオレは、また立とうとしてるんだろう…?
と、とにかく立つんだ…立って…。
か…河井さん…?
あ…。オレの肩をつかんで…?
よ、よく聞こえないけど…た、たしかに、河井さんなんだね…。
泣かないで…何も言わなくていいから…。
ああ。もう言葉なんて、何もいらない――
屋上の手すりにひじをのせて、竜児は空をながめていた。
あの闘いで、カイザーに別れをつげたことまでは覚えている。
気がついたら病院のベッドで、身動きがとれないほど包帯でぐるぐる巻きにされていた。
ようやく、こうして歩けるようになったけど…退院まで一週間はかかるそうだ。
はじめに目を覚ましたとき…菊は、こっちが見ているのが辛くなるような、複雑な顔をしていた。
それからずっと、よほど怒っているのか…ろくに竜児の顔を見ないばかりか、あまり口もきいてくれない。
(ねえちゃん…。ずいぶん心配かけたみたいだな)
カン…カン…カン…
鉄階段をあがってくる音。
開放されたドアを抜け、ゆっくりと歩を進めて――
竜児から少し離れた斜め後ろの方で、足音は止まった。
「…高嶺くん」
竜児はふり返った。そこに立つ友の顔を見て、にっこり笑う。
「河井さん。もう傷のぐあいはいいのか…?」
「ええ。たぶん、キミよりはずっと」
頭に包帯を巻いた武士は、そういって微笑した。
「アハ…」
違いない。竜児は、包帯と絆創膏だらけの顔で照れ笑いした。
全身打撲にくわえて数箇所にヒビを含む骨折で、まだ松葉杖を手放せないのだ。
武士のほうは、頭部と心臓付近の強打で昏睡に陥り、一時はあぶない状態だったものの――外傷はさほど
ひどくなく、精密検査がすめばいつでも退院できる、と竜児の見舞いに来た貴子はいっていた。
「高嶺くん…。今度のことは、ほんとうに…なんと言ってあやまればいいのか…」
「それはもう、言いっこなしだよ」
武士に笑いかけると、竜児はまた手すりに頬杖をつき、ぼんやり空をながめる。
すこし離れた隣にひじをつき、武士も手すりから空をながめた。
「…弱いなァ、オレ」
ふいに、竜児が独り言のようにつぶやいた。
「え…?」
「オレがもし、河井さんの立場だったら…どうなってたかわからない」
「……」
「いきなり、とうちゃんとかあちゃんの子じゃないって言われて…ねえちゃんに絶縁されて…。日本Jr.のみんなを
敵にまわして、それでも闘わなきゃいけないとしたら…」
急に声がくぐもったので、武士は隣のほうに目を戻して驚いた。
竜児の目が濡れている。
「高嶺くん…?」
竜児はハッとして、あわてたようにパジャマの袖でごしごし顔をこすった。
「ご、ごめん…実はオレ、すごい泣き虫なんだ。気にしないで…アハ」
つられて、武士も思わず微笑する。
「初耳ですよ」
「アハ…。昔、ねえちゃんによく怒られたな。男らしくないって」
「ねえさん…か。ぼくは…そういえば、男らしくしろ、と言われたことはなかったな…」
言われなくても、ことさらに強く、男らしくあろうとしつづけてきた。
だから――いま思えば、血なまぐさい闘いに関わるものから遠ざけたいと願った、育ての両親の愛情からだろうが
――禁止されていたボクシングを、姉が教えてくれると言ったときには飛びついた。
そのボクシングに、打ちこんだのも。
細身の体格をカバーするために、テクニックに磨きをかけたことも。
リング上で、容赦なく相手をマットに沈めることも。
「えっ」
「意外ですか?」
「…いや、そうだよね。河井さんは強いし、オレよりずっと男らしいもの」
竜児の言葉に、武士は首を横に振った。
「いや、ぼくは…ほんとうの強さというものを、キミに教わったんだ」
「え…」
「キミのまっすぐな生きかた…闘いかた。ぼくには真似のできるものではないけれど…たとえ離れていても、キミの
ことを…そして日本Jr.の仲間のことを思いだすと、勇気づけられる」
武士は言葉を切って、遠い空を見やった。
「そんな、大切なことを…ぼくは忘れようとしてたんだな…」
「河井さん…」
武士は竜児の目を正面から見て、ひとこと言った。
「ありがとう」
竜児のよく知っている、やさしい微笑で。
熱い友情と、勇気をとどけてくれたキミに。
何万言の言葉よりも、ずっと――
カン、カン、カン…
足早に鉄階段をあがる音に続いて、聞きなれた声。
「おっ、竜に河井…! こんなとこにいたのかよ、探したぜェ〜!」
松葉杖の石松につづいて、左腕に包帯を巻いた志那虎があらわれた。
「もう出歩いてもいいのか」
「ええ、おかげさまで。ぼくより高嶺くんのほうが――」
ふと言葉を切って真面目な顔をした武士の背を、石松がどやしつけた。
「おおっと、何も言うなって。河井の元気そうな顔を見れただけでじゅうぶんだ」
「石の言うとおりだ。オレたちゃ、そんな水くせえ仲じゃねえだろう」
「石松…志那虎さん…。ありがとう」
――ここに、みんなが…河井さんが、いる。
(よかった…)
また涙腺がゆるみそうになったのを、竜児は上をむいてこらえた。
「しかし剣崎もアレだよなァ。ひとりで見舞いにきたんなら、メロンくらい置いてきゃいいのにな。あいつんち
金持ちなんだしよォ」
「それはわるいよ、石松。この病院も剣崎が紹介してくれたんだし」
そう、剣崎は何も言わないけど――今回のことが公けな事件になっていないのも、きっとかれがこっそり
手を回したからに違いない。
「メロンといえば、ぼくの病室にねえさんが持ってきてくれたのがあったな。みんなでいただきましょうか」
「うっひょォ! さっすが河井ィ、持つべきものは友だよなァ」
調子よく背中をたたく石松に、武士は笑い声をあげる。
「アハハハハ…いたた、痛いですよ。もう、全然変わってないな、石松は」
「いいのか、河井」
「ええ、どうせぼくひとりじゃ食べきれないですし」
志那虎の気遣いにこたえる武士のこちらで、石松がぐっと唾をのみこんでいる。
「メ…メロンかよ….。おい竜、おまえメロン食ったことある?」
「うん、小さい頃に一度。入院してたとうちゃんのお見舞いをもらって…」
「な、なんだよ…オレだけかよォ。チキショー」
「あれ、石松はメロンを食べたことはないんですか?」
「ぐっ…。…河井よォ、おまえも全然変わってねえよなァ」
仲間の笑い声を追って屋上の扉に入りかけ、竜児はもう一度空を見あげた。
明日からは、みんな元通りに自分の道を歩いてゆくだろう。
けれど――
たとえ、時間と空間がどれほど離れていても。
みんなと過ごした思い出があるから、がんばってゆける。
――かけがえのない時間と、勇気をありがとう――
2002.10.19―18:49UP
子供の頃、いちばん燃えた漫画に捧げて
小林 未知
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