\ 決心




鳴り響く電話のベルに、貴子は少しためらった。
六回… 七回…
八回目の鳴る前に、ようやく受話器をとる。
「はい…河井です。 …菊さん?」
思わず言ってしまってから、ハッと口元を押さえた。
『ウチの竜児が、そちらにうかがったと思いますけど…』
菊は、初対面の相手にするような丁寧な口調でいった。
「ええ…」
『…竜児から、聞きました』
貴子が答えられないでいると、しばらく沈黙があってから、菊が続けた。
『ウチは、お宅の事情は知りませんっちゃ。けど… 姉として、弟のことを思う気持ちからだと…そんな気がしました』
「それなら…。どうか、これ以上…」
『あんたは本当にそれでいいの?』
ハッ、と貴子は目を見開いた。
『男はいつか、ひとりで巣立たねばならない時がくる――いつかウチは、あんたの言葉に教えられたっちゃ。

 いちど巣立った男は、いくら止めようとしても行ってしまう。けど…』
いやだからこそ――と、菊はいった。
『いま手を離して、ほんとに後悔しないの?』
「……」
『それだけ、言っときたかったのですっちゃ。…失礼します』
プッ… ツー・ツー…
通話の切れた受話器を握ったまま、貴子は立ちつくした。
(あんたは本当にそれでいいの?)

――父さんも母さんも、武士を見捨てるの?!
そう…あれは、わたしが十三歳の誕生日を迎えたときだった。
「貴子、おまえに言っておくことがある」
両親があらたまってわたしを呼び、そう切りだしたのは。
阿修羅一族と名のる者が、武士を迎えにやってくるかもしれない。
来なければいいが、もしも――来てしまったら。
その時はかれらの言うとおりにして、おまえは決して関わってはいけない――と。
どうしても納得できないわたしに、父はいった。
「武士は…武士は、阿修羅一族からあずかった子なのだ」
その言葉に、ずっと忘れていた幼い日の記憶がよみがえった――
武士が、はじめて家に来た日のことが。
(武士は貴子のほんとうの弟なのだから、仲良くするのよ)
なぜ、母はあんなことを言ったのだろう…?
『ほんとうの弟のように』という意味で、子供に言いきかせるためだったのか。
もちろん、武士がわたしと血の繋がった弟でなかったとしても――
わたしにとって、武士はただひとりの『ほんとうの弟』であることに変わりはない。
――はず、だった。
いえ、今でも。だからこそ――
(本当にそれでいいの?)
わからない。
…わからない……


受話器を置くと、菊はそっと部屋をのぞいた。
「竜児…行くのか?」
ボストンバッグに着替えをつめこんでいた竜児は、振り返らないままで答える。
「うん。志那虎も東京に来てるけど…ひと足さきに影道館( シャドウやかた)へ行って、総帥と相談してみるよ」
「志那虎が?」
「ああ…剣崎の立ち回りそうな場所を知ってるから、直接会って話してみるって」
剣崎の名を聞いて、菊は考えるように目をふせた。
「あいつは…プロになる男だ。こんな挑発に、軽々しくは動かないはず…」
「オレもそう言ったんだけど。でも、伝えといたほうがいいだろう」
菊は黙ったまま、答えない。
竜児も黙々と旅じたくを整えていたが、ふいに言った。
「ねえちゃん… 止めるなよ」
「止めたって、行くんだろう」
「……。 ごめん」
菊は、来た時のようにそっと部屋を出た。
やがて、ジムの玄関をあけて夕暮れの街へ駆けだす竜児の靴音が聞こえた。



★END★
★BACK⇒8
★NEXT⇒10