U 阿修羅の里




同日、夕刻――東京月島、大村ボクシングジム。
ジリリリ――
「また電話? なんだっちゃね、この忙しい時間に」
隣の大村医院から駆けこんだ菊( きく)は、看護婦姿のまま受話器をとりあげた。
「もしもし、大村医院…じゃなかった、ボクシングクラブです…竜児( りゅうじ)?」

せきこんだ調子の弟の声に、抑えていた不安が高まってゆく。


つい昨日のことだ。
竜児が帰宅する直前、学校の拳闘部室にあらわれた不審な男に襲われたのは。
「変質者かァ? まったく近ごろは物騒になって…。竜児、おまえも気をつけなきゃダメだぞ。
 ねえちゃんに似てかわいい顔してんだからァ」
「う、うん…」
「けど、そいつも運がわるかったな。よりによって、元Jr.チャンピオンの高嶺竜児にちょっかい出すなんてさ」
「ねえちゃん…。そいつ、オレだと知ってて狙ってきたみたいなんだ」
「…なに?」
そうだとすれば、ただ者ではない。
単なるいたずらにしろ、なにか目的があってのことにしろ。
「『アシュラ』? 聞いたことないな」
「そうか…。とっちゃんも知らないっていうし…」
しばらく考えて、竜児は顔をあげた。
「オレ明日、影道館( シャドウやかた)にいってみる。総帥なら知ってるかもしれない」
「明日? またそんな急に…」
「胸騒ぎがするんだ。なにか、とてもいやな事がおこりそうな…」
胸騒ぎは、菊も感じていた。
また、弟を無益な戦いにひきずりこもうとする何かが、動きだしたのではないか。
そう。それに弟だけではなく…
「あいつの言ってたことが本当なら、元日本Jr.のみんなが狙われるかもしれない」

「総帥には会えたのか? うん…。 それで、なんて言ってた?」
『詳しいことは帰ってから話すよ。剣崎( けんざき)たちにも早く知らせないと』
「竜児…。実はさっき、京都から電話があってな」
『志那虎( しなとら)が!?』

菊は、つい先ほどかかってきた電話の内容を話した。
志那虎家の道場に『阿修羅一族』 と名のる男があらわれ、宣戦布告をして去ったという。
その際に、戦おうとしない志那虎を怒らせるため、妹の二葉( ふたば)にまで乱暴をはたらいたというのだ。
百鬼丸( ひゃっきまる)という阿修羅の男は「何もしていない」と言ったが、信じられるものではない。
だが幸いにも、二葉は本当に無事だったようだ。
母の話によると、かすり傷以外はまったくの無傷らしいというが…。
それでもひどいショックを受けたらしく、兄や父にすら顔を見せたがらずに寝こんでいるという。
(やつらは目的のためなら手段を選ばない。菊さんも気をつけてください)

『そうか…。ねえちゃん、オレ今から河井さんと石松( いしまつ)と剣崎に連絡するよ。帰るのはそれから…』
「おっと竜児、ちょい待ち」
ガラガラッ――
乱暴に戸を開ける音と同時に、誰かがすごい勢いで転がりこんできた。
「竜ーッ! おねえちゃん! 無事かあーッ!!」
「石松…!」
『え…? 石松、そこにいるのか?』
千葉から駆けつけてきたらしい元日本Jr.メンバーの香取( かとり)石松は、菊の顔を見るなりその場にへたりこんだ。
「よ…よかったァ、おねえちゃん無事で…。そうだ、竜は? はやく知らせねえと、阿修羅とかいうヤツらが…!」


竜児は受話器を置いて、焦る指先で手帳をめくった。
石松のところにも阿修羅があらわれたとなると、一刻の猶予もない。
(ダンナの妹にまで手を出すたあ、どこまでもドふざけた野郎どもだぜェ〜ッ!)
頭にヤカンをのせたら沸騰しそうな勢いで怒っている、電話の向こうの石松の様子が目に浮かぶ。
(石松、そこで少し待っててくれ。今から剣崎と河井さんに連絡をとって、また電話する)
(剣崎はあとまわしでいいんじゃねえか?)
(石松…)
(カンちがいすんな。オレァこんな時に妙なヤキモチ持ちこむほどダセェ野郎じゃねえよ)
(ああ、わかってる)
(ただ、あいつは大財閥のお坊ちゃまだ。ボディーガードもいるだろうし、ヤツらもそう簡単に手を出せねえってんだよ)
一瞬、竜児の頭に加奈子( かなこ)の顔が浮かんだ。剣崎のいいなずけを狙ってくるなんてことは…。
いや、三条( さんじょう)家も大富豪だ。それに、剣崎に婚約者がいる事はごく一部の者しか知らない。
まず、狙われる心配はないだろう。
(それに、剣崎にはダシに狙われそうな女きょうだいもいねえ)
(そうか、河井さんは…!)
プルルル…プルルル…
電話の出待ちコールが、これほど間延びして感じたことはない。
『はい、河井です。…あら、高嶺くん。ひさしぶりねぇ』
河井の姉、貴子( たかこ)の無事らしい声を聞いて、竜児は胸をなでおろした。
「おねえさん、河井さんは? 今どこにいるんですか…エ、学校?」
『ええ…高校の音楽部の部長になってから忙しいのよ、あのコ』
それはいいですから、と言いたいのを、ぐっとこらえた。
今の竜児に、じっくり世間話を聞く心の余裕はない。
「…とにかく、今すぐ河井さんに伝えたいことがあるんです」
真剣な口調に、貴子もただ事ではないと察したらしい。
『武士になにか…?』
「おねえさんも気をつけてください。阿修羅というヤツらがオレたちを狙っていて…」
『エ…!? も…もう一度いって、高嶺くん…』
「阿修羅です。もしや心あたりでも…?」
ゴツッ――と殴られたような音が響いて、竜児は思わず受話器を遠ざけ耳を押さえた。
貴子が、受話器を取りおとしたのだろうか。
「もしもし、おねえさん! もしもし、どうしたんです…」


「河井のねえちゃんの様子がおかしいって?!」
石松は、受話器のむこうの竜児に向かって叫んだ。
『ああ。それで、オレは越後長岡に行ってみようと思う』
「河井の家だな。今からか?」
『いや、いくらなんでも真夜中に押しかけちゃまずいだろ。電車もなくなるかもしれないし』
「明日か。オレも行くぜ! チャンピオンカーニバルん時の偵察で、越後長岡にも行ったからな。
 道案内くれェなら、できっからよ」
『たすかるよ、頼む。…あ』
「どうした、竜?」
『わるい、帰ってからまた連絡する』
「十円玉が切れたのか?」 (注:この当時にテレカはありません)
『…アハハ…』
「心配すんな、剣崎と志那虎のダンナにもいっとくからよ…って、切れちまったい」
 受話器を置いた石松は、竜児の照れ笑いを思い浮かべて、ふっと頬をゆるめた。
 ――しょうがねェよな、竜の野郎は。
ダチのことに…まだ何か起こったと決まったわけでもねェのに…こんなに熱くなって、真剣に走りまわってよ。
――けど、そんなお前が。
(オレは好きだぜ、竜――)
「おっしゃあ!」
石松は気合を入れると、振りかえって声をあげた。
「おねえちゃーん! 電話借りていい?」



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