Last Sunday |
1 グラブとタオル、バンテージをバッグに放り込む。 うるさいナースのオバサンにイヤミを言われないうちに、さっさと出ちまおう。 病室のドアに手をかけて、ふと立ち止まる。 一応「チームメイト」って事になってるはずの、あいつら。 嵐のヤツは、昨日「ゲッペルスをぶっとばす」とか言って飛び出してったきり、帰って来やがらねえ。 イヨリは…まあいいか。 いまだに「円相図を取り戻すために来ただけだ」とか言ってるしな。 声かけたところで、「なれあいは断る」とかなんとか、スカした顔で嫌がるに違いない。 どうせ、あいつらとは試合場で会えるだろう。 もし来なくても… その時は。 俺ひとりででも、やるだけだ。 2 遺書…か。 今まで、何通の遺書を書いたことだろう。 幼い頃、病院のベッドで目覚めたある日に―― ――いつ、突然ぼくが何もわからなくなって、この世から消えてしまうかわからないんだ。 そう、なんとなく気づいた時から。 入院や、手術のたび…そして、毎年の誕生日に。 置き場所も…簡単には見つからないけど、もしぼくがいなくなって片付けた時にわかるような場所に、こっそりと。 ――今までありがとう。ごめんなさい。叔父さんによろしく。 書くことなんて、いつもそう変わりはしない。 それでも、誰にも読まれなかった手紙を燃やしては、何度も新しい手紙を書いたのは。 やっぱり…かな。 たとえ、ほんの少しでも。 「この世に生きた証」が、欲しかったからかもしれない。 カチャッ―― 「起きてるか、響?」 あわてて、封をしたばかりの手紙を手元に隠す。 うっかりしていた。 麟童の足音に気がつかないくらい、考え事に気をとられていたなんて。 「なんだ、手紙書いてたのか?」 「ああ。ちょっと…ね」 「ふぅん。おまえも律儀だよなあ」 麟童は、きれいに片付けた病室の様子をざっと眺めた。 ヘルガ先生から、今日が手術だと聞いてきたのだろう。勝手に納得してくれたみたいだ。 けど…ね。 律儀、と麟童は言ったけど、わかってるのかな。 心臓の手術なんて、運が悪けりゃ死ぬかもしれないんだよ。 身の回りを片付けたり、親しい人に手紙を書いたりするのも当たり前。 「…? なにがおかしいんだ、響?」 「いや…。きみも相変わらずだな、と思ってね。ノックもせずにドアを開けるは、人の病室を遠慮なく眺めまわすは」 「なんだ、そりゃ? …まあ、イヤミ言うほど元気になったんなら安心だな」 ちょっとふてくされた顔のすぐ後で、いたずらっぽく笑って。 ……… 「ありがとう、麟童」 「…はぁ?」 ふと口をついてしまった言葉をごまかすために、話題をそらす。 「見舞いに来てくれたんだろう? 試合に出かける前に」 「ああ、今日が手術って聞いたんでな。決勝に出れなくてガッカリしてる顔を見てやろうと思ってよ」 わかってるよ、麟童。昨日のことは。 目も開けられないほどだるかったけど、うっすらと気づいてたから。 生命力あふれる、プレスティシモの足音。 遠くから、こちらへ駆けてくる…ああ、病院の廊下は走っちゃいけないんだけどな。 また、そんな乱暴な音で扉を叩きつけて。行儀のわるい大声あげて…しょうがないなあ。 冷たい電子音を発する医療機器に繋がれた、ぼくの体の横で…足音は、止まった。 一瞬、息をつめる気配。 「よ…良かったな。響…」 それから、微かな安堵の吐息。 その音は、かあさんのように優しく…けれど力強い響きを含んでいて。 知らないだろうな、きみ自身は。 こんなに心地よくて暖かい息の音を、響かせることができるなんて。 そう。一流の演奏家だって、簡単には出せやしない。 こんなにストレートに「やさしさ」を表現した音は…ね。 「おい響、なに笑ってんだ。…ったく」 ほんとにおかしいなあ、きみってやつは。 そうポリポリ頭をかいたら、所在なく照れてるのがバレバレだっていうのに。 3 たぶん麟童たちは、何も聞かされていないんだろうな。 昨夜おそく。 叔父さんがヘルガ先生とふたりで、ぼくの病室に来た。 先生は、詰めていた看護師さんを外に出してから、用心深く扉を閉めると―― おもむろに、説明をはじめた。 ぼくの病状が、かなり悪化していること。 はっきり言えば、このままだと余命は2〜3ヶ月。 それも入院して安静にしていればの話だ――ということ。 そこまで話して、先生は言葉を切った。 「ようするに、明日の試合には出るな、という話ですか」 「それは無論ですが…キョウ君」 「ほかに何か…?」 「君の余命を延ばす方法が、全くないわけでもない」 「わかっています。心臓移植でしょう。けれど、そう簡単に適合するドナーが見つかるはずもない。主治医には『期待をかけるな』と言われました。ぼくも、その事はあきらめています」 「では、もし…適合するドナーがいるとすれば?」 「…えっ?」 ドクン。 ぼろぼろの心臓がわずかに跳ねた。いやな予感。 「きみは手術を受ける意思があるのか。それを訊きにきたのですよ」 「…誰なんですか、そのドナーは」 「それは言えません。規則ですので」 ぼくは、ヘルガ先生の眼鏡の奥をじっと見据えた。 先生も真剣な目をそらさず、ぼくの目を鋭く見つめ返してくる。 いやな…予感。 緊張がクレッシェンドして。 「…せっかくのお話ですが、先生。ぼくは手術を受けるつもりは」 「響」 ずっと黙っていた叔父さんが、はじめて口を開いた。 「今から言うことを、冷静に最後まで聞いてほしい。わたしは…」 「カワイ君!」 「ヘルガ君、お気持ちは有難いが、やはり黙っているのはフェアじゃない。きちんと話せば、響もわかってくれるはずだ」 ぼくの目を正面から見て、優しくうなずきかける。 信頼と懇願が複雑に入り混じった、けれど強い意志の光を放つ目で。 「聞いてくれるね?」 ずるいよ、叔父さん…断れるはずがない。 尊敬するあなたに、そんな目をさせてしまうなんて。 自分がとても聞きわけのない、悪い子になったような罪悪感に苛まれてしまう。 たぶん、あなたの言うことは正しい。 けれどそれは大人の都合。 ぼくにとっての真実は… 「……」 「手術を受けてくれるね、響?」 「…わかりました」 だから、ぼくも嘘をつく。 ごめんなさい…叔父さん。 4 どうも苦手なんだよな、響は。 特に、今朝は様子が妙だ。 俺の顔を見てくすくす笑ったかと思えば、まぶしそうに目を細めて微笑んだり。 「おまえ、倒れたときに打ちどころが悪かったんじゃねえか?」 「…そういえば、聞いておきたかったんだけど」 ……無視かよ。 「麟童は、何のためにこの大会で闘ってるの?」 「そりゃあ決まってんだろ。完全勝利で『誓いの旗』を揚げるため…」 「だから、それは何のために?」 「今頃なに言ってんだよ、だいたい河井のおじさんを治すためにだな…あっ」 そういえば、ちゃんと考えた事がなかった。 俺は、何のために闘ってるのか。 親父を見返すためか? クソ面白くもねえ世の中の憂さ晴らしか? …いや。前はそうだったけど、今は少し違うな。 何がどう違うかなんて、わかんねえけど。 「理由なんて、ねえよ。やりたいから、やってるだけだ」 「…だろうね」 また、俺の顔を見てまぶしそうに微笑む。 調子狂うなあ。これがバカにして笑ってんなら、一発ぶん殴ってや……れねえか、病人だもんな。 仕方がねえ。 「おじさんが治ったから、響の目的は果たしたんだよな。…よかったな」 「…いや」 「え?」 訊きかえすと、響はふいに真剣な顔をした。 「それだけじゃない。たぶん、きみと同じ理由」 「へぇ…? まあ、いいけど」 「ボクシングがやりたいから」 「あっ」 そうだった。スコ・ヘルにケンカ売られて熱くなってたせいで、忘れかけてたけど。 「思い出した?」 「ああ…。しっかし、おまえもかなり意地が悪いよな。ヘルガといい勝負してんじゃねえか?」 つい、ぼそっと文句を言うと、響は素直にあやまった。 「そういう風に聞こえたなら、ごめん。ただ、伊織くんや嵐くんには、それぞれ別の目的があるみたいだから」 「まあ…。そうだっけな」 「だから、麟童だって…。もう、用を済ませて日本へ帰っても構わないんだよ? 叔父さんに許可をもらえば、目的は果たせるんだから」 「バッカ野郎、ここまで来といて、いまさら中途半端で帰れるかよ。決勝で完全勝利をキメて、誓いの旗を揚げる。それからスコルピオンをぶっとばす。これが俺の目的だ!」 響は、優しげに微笑みながら聞いている。 やっぱ、妙だ。 「ま、旗が揚がる所が見られなくて残念だったな。その代わり、手術がんばれよ」 そう励ますと響のやつ、妙な顔で目を伏せた。 悲しげな…いや、なんだか辛そうな、とにかくシケた面。 「響…」 「……」 そうか。考えてみりゃ、こいつも…えらいよな。 自分の胸を切られて、心臓をメスでいじくり回されるなんて、思っただけでぞわーっと寒気がしてくるぜ。 しかも、それをじっと待つ時間ってのは…俺には耐えられねえ。 ケンカなら、どんなにヤバい状況でも、自分も動けるから気が楽なんだけどな。 とにかく…そうだ、なんでもいいから元気づけてやらねえと。 5 「おまえ、俺にケンカ売ったこと忘れてんじゃねえだろうな?」 麟童がいきなりそんな事を言い出したので、ぼくはあっけにとられた。 「え?」 「日本へ帰ったら、続きやろうぜ。リングの上でよ」 「麟童…」 ぽかんとして返す言葉もないぼくを置いて、麟童は話し続ける。 「おまえに言いたい放題言われっぱなしじゃ、こっちもおさまらねえ。けど、病人を殴るわけにもいかねえしよ。だから…おまえの病気が治ったら、勝負だ。わかったな、響」 元気づけてるつもり…かな? ああ、ほんとうに君らしい励まし方だな。 ぼくは笑って答えた。 「麟童。…もう、いいんだ」 「響」 「もう気が済んだから。今のぼくには、きみと闘う理由はない」 「……。んな…」 ありがとう。 でも、もういいんだよ。ほんとうに。 「はじめはね。きみを倒せば、何かを手に入れられる気がしてた。ずっと欲しかったもの…そう、この胸に穴が空いてるような虚しさを、満たせるものが」 この胸が苦しくなるたび――激痛に気が遠くなるたびに。 苦痛だけに全てを支配され、何も考えられなくなる。 ようやくそれがおさまると、痛みのかわりに空白が胸を満たした。 ぽっかりと空いた風穴の中には――ぼくを苦しめるばかりの、このぼろぼろの心臓だけ。 そして…焦り。恐怖。あきらめの感情。 そんなもので、この空白を埋め尽くしたくなかった。 そんなものが霞んで消えてしまうほど、強く輝きを放つものが欲しかった。 ずっと。 ずっと、それを求め続けて―― 「でも、君といてわかったんだ。――それは、『手に入れる』ものじゃない。『自分の手でつくり出す』ものなんだって」 何かの目的を果たせば、生命の輝きが手に入るというものではなくて。 目的を果たすために、今この瞬間を精一杯燃えて輝くこと――そのことこそが。 ぼくが、この世に生きた証なんだ、と。 「いい目してるな、今のおまえ」 そう言って、麟童は微笑した。 「よし、響。おまえはとにかく生きることを考えろ。絶対に死ぬんじゃねえぞ」 チリッ…と胸が痛んだ。 肉体の痛みではない、けれどたまらなく辛い…痛みに。 「俺は、ひと足さきに日本へ帰ってるぜ。試合が済んだら、河井のおじさんに許可をもらって…いや、もらえなくてもだ。自力ででもボクシングやって、わからずやの大人たちにいやでも認めさせてやるぜ」 「麟童、叔父さんは…」 「ん? 河井のおじさんがどうかしたのか?」 やはり、知らないんだな。 その方が、いい。あんなことは、知らないほうが。 「叔父さんには、会ったの?」 「いや。ヘルガ先生は『いない』とか言ってたけど、意味がわからねえんだよ。響みたいにドイツ語よく知らねえしよ」 「麟童。…」 生命力に満ちた表情豊かな目を、正面から見据えて。 ひとつ深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。 「ぼくにもしもの事があったら、叔父さんを頼む」 「響…」 「わかってる。頼まれたって困るかもしれないけど。今やぼく達のほうが叔父さんの世話になってるんだしね。けど…けど、叔父さんは…」 「……」 「きっとショックを受けると思う。それで病気が再発して、何もわからなくなったら…もし、ぼくのせいでまた、そうなったら…。もう、ぼくはどうすることもできないんだ。だから…」 パシッ。 いきなり、肩を軽くはたかれた。 「しっかりしろ」 「…麟童」 「考えすぎなんだよ、おまえ。…ったく、芸術家ってのは繊細だからなあ」 「…ごめん。きみに甘えてるな、ぼくは」 「バァカ! ほんとにわかってねえな、おまえ」 ひょっとして…怒ってる、麟童? しかも、かなり本気で。 「頼まれなくたって、病気のおじさんを放っとくかよ。こっちにゃヘルガ先生だっているし、今のおまえが心配することじゃねえ。それより」 ガシッ、と痛いほど肩をつかまれる。 「おまえの大切な叔父さんだろ? おまえが自分で面倒見てやらねえで、どうすんだよ」 痛い。 痛いよ、麟童。 肉体じゃない…心が。 6 しまった…また突っ走っちまった。 「…すまねえ」 痛みに歪む響の顔に気付いて、わしづかみにした肩から手を離す。 パジャマ越しの体は、ぎょっとするほどひ弱な感触だった。嵐やイヨリと全然違う。 こいつ…病人だったんだ。しかも、今から大きな戦いに臨もうとしている…。 「…おまえも。大変だったよな」 「いや…」 「おじさんのことは心配すんな。おまえは、おまえの戦いを精一杯やれ。俺は俺の戦いをやるからよ。――おたがい、勝ってまた会おうぜ」 俺は全然わかっていなかった。 この時、自分がいった言葉に、どんな意味が含まれていたか。 「ありがとう。麟童」 そう言った響の表情―― 何か吹っ切れたような、透きとおった微笑の意味も。 そして…俺は負け、あいつは勝った。 あのとき、俺と嵐が…無様にぶっ倒れていなければ。 イヨリのやつが、もうしばらく会場に残っていれば。 灯りが消えたままの、おじさんのアパートで。 静かな、暗い部屋に座って…何度そんな無意味な事を思ったか。 いや… それでも、止められなかったろう。 誰にも、あいつの大切な叔父さんにさえも。 ――麟童…きみと出逢えて、よかった。 あれから病室を出ようとした俺の背中に、あいつは言った。 照れくさくって、聞こえなかったふりをしちまったけど。 もう永遠に言えやしねえ、伝えそこねた言葉―― 響…おまえ。 俺が、生まれてはじめて出逢った… 友達、だったんだよ。 2003.1.11.02.24UP
|
|
|