Last Sunday









グラブとタオル、バンテージをバッグに放り込む。
うるさいナースのオバサンにイヤミを言われないうちに、さっさと出ちまおう。



病室のドアに手をかけて、ふと立ち止まる。

一応「チームメイト」って事になってるはずの、あいつら。
嵐のヤツは、昨日「ゲッペルスをぶっとばす」とか言って飛び出してったきり、帰って来やがらねえ。
イヨリは…まあいいか。
いまだに「円相図を取り戻すために来ただけだ」とか言ってるしな。
声かけたところで、「なれあいは断る」とかなんとか、スカした顔で嫌がるに違いない。



どうせ、あいつらとは試合場で会えるだろう。
もし来なくても…
その時は。
俺ひとりででも、やるだけだ。












遺書…か。
今まで、何通の遺書を書いたことだろう。

幼い頃、病院のベッドで目覚めたある日に――
――いつ、突然ぼくが何もわからなくなって、この世から消えてしまうかわからないんだ。
そう、なんとなく気づいた時から。
入院や、手術のたび…そして、毎年の誕生日に。
置き場所も…簡単には見つからないけど、もしぼくがいなくなって片付けた時にわかるような場所に、こっそりと。

――今までありがとう。ごめんなさい。叔父さんによろしく。

書くことなんて、いつもそう変わりはしない。
それでも、誰にも読まれなかった手紙を燃やしては、何度も新しい手紙を書いたのは。
やっぱり…かな。
たとえ、ほんの少しでも。
「この世に生きた証」が、欲しかったからかもしれない。




カチャッ――
「起きてるか、響?」

あわてて、封をしたばかりの手紙を手元に隠す。
うっかりしていた。
麟童の足音に気がつかないくらい、考え事に気をとられていたなんて。
「なんだ、手紙書いてたのか?」
「ああ。ちょっと…ね」
「ふぅん。おまえも律儀だよなあ」
麟童は、きれいに片付けた病室の様子をざっと眺めた。
ヘルガ先生から、今日が手術だと聞いてきたのだろう。勝手に納得してくれたみたいだ。
けど…ね。
律儀、と麟童は言ったけど、わかってるのかな。
心臓の手術なんて、運が悪けりゃ死ぬかもしれないんだよ。
身の回りを片付けたり、親しい人に手紙を書いたりするのも当たり前。
「…? なにがおかしいんだ、響?」
「いや…。きみも相変わらずだな、と思ってね。ノックもせずにドアを開けるは、人の病室を遠慮なく眺めまわすは」
「なんだ、そりゃ? …まあ、イヤミ言うほど元気になったんなら安心だな」
ちょっとふてくされた顔のすぐ後で、いたずらっぽく笑って。
………
「ありがとう、麟童」
「…はぁ?」
ふと口をついてしまった言葉をごまかすために、話題をそらす。
「見舞いに来てくれたんだろう? 試合に出かける前に」
「ああ、今日が手術って聞いたんでな。決勝に出れなくてガッカリしてる顔を見てやろうと思ってよ」
わかってるよ、麟童。昨日のことは。
目も開けられないほどだるかったけど、うっすらと気づいてたから。



生命力あふれる、プレスティシモの足音。
遠くから、こちらへ駆けてくる…ああ、病院の廊下は走っちゃいけないんだけどな。
また、そんな乱暴な音で扉を叩きつけて。行儀のわるい大声あげて…しょうがないなあ。
冷たい電子音を発する医療機器に繋がれた、ぼくの体の横で…足音は、止まった。
一瞬、息をつめる気配。
「よ…良かったな。響…」
それから、微かな安堵の吐息。
その音は、かあさんのように優しく…けれど力強い響きを含んでいて。

知らないだろうな、きみ自身は。
こんなに心地よくて暖かい息の音を、響かせることができるなんて。
そう。一流の演奏家だって、簡単には出せやしない。
こんなにストレートに「やさしさ」を表現した音は…ね。



「おい響、なに笑ってんだ。…ったく」
ほんとにおかしいなあ、きみってやつは。
そうポリポリ頭をかいたら、所在なく照れてるのがバレバレだっていうのに。











たぶん麟童たちは、何も聞かされていないんだろうな。



昨夜おそく。
叔父さんがヘルガ先生とふたりで、ぼくの病室に来た。
先生は、詰めていた看護師さんを外に出してから、用心深く扉を閉めると――
おもむろに、説明をはじめた。

ぼくの病状が、かなり悪化していること。
はっきり言えば、このままだと余命は2〜3ヶ月。
それも入院して安静にしていればの話だ――ということ。
そこまで話して、先生は言葉を切った。

「ようするに、明日の試合には出るな、という話ですか」
「それは無論ですが…キョウ君」
「ほかに何か…?」
「君の余命を延ばす方法が、全くないわけでもない」
「わかっています。心臓移植でしょう。けれど、そう簡単に適合するドナーが見つかるはずもない。主治医には『期待をかけるな』と言われました。ぼくも、その事はあきらめています」
「では、もし…適合するドナーがいるとすれば?」

「…えっ?」
ドクン。
ぼろぼろの心臓がわずかに跳ねた。いやな予感。
「きみは手術を受ける意思があるのか。それを訊きにきたのですよ」
「…誰なんですか、そのドナーは」
「それは言えません。規則ですので」
ぼくは、ヘルガ先生の眼鏡の奥をじっと見据えた。
先生も真剣な目をそらさず、ぼくの目を鋭く見つめ返してくる。

いやな…予感。
緊張がクレッシェンドして。

「…せっかくのお話ですが、先生。ぼくは手術を受けるつもりは」
「響」
ずっと黙っていた叔父さんが、はじめて口を開いた。
「今から言うことを、冷静に最後まで聞いてほしい。わたしは…」
「カワイ君!」
「ヘルガ君、お気持ちは有難いが、やはり黙っているのはフェアじゃない。きちんと話せば、響もわかってくれるはずだ」
ぼくの目を正面から見て、優しくうなずきかける。
信頼と懇願が複雑に入り混じった、けれど強い意志の光を放つ目で。

「聞いてくれるね?」

ずるいよ、叔父さん…断れるはずがない。
尊敬するあなたに、そんな目をさせてしまうなんて。
自分がとても聞きわけのない、悪い子になったような罪悪感に苛まれてしまう。



たぶん、あなたの言うことは正しい。
けれどそれは大人の都合。
ぼくにとっての真実は…



「……」
「手術を受けてくれるね、響?」
「…わかりました」



だから、ぼくも嘘をつく。
ごめんなさい…叔父さん。












どうも苦手なんだよな、響は。
特に、今朝は様子が妙だ。
俺の顔を見てくすくす笑ったかと思えば、まぶしそうに目を細めて微笑んだり。

「おまえ、倒れたときに打ちどころが悪かったんじゃねえか?」
「…そういえば、聞いておきたかったんだけど」
……無視かよ。
「麟童は、何のためにこの大会で闘ってるの?」
「そりゃあ決まってんだろ。完全勝利で『誓いの旗』を揚げるため…」
「だから、それは何のために?」
「今頃なに言ってんだよ、だいたい河井のおじさんを治すためにだな…あっ」


そういえば、ちゃんと考えた事がなかった。
俺は、何のために闘ってるのか。
親父を見返すためか? クソ面白くもねえ世の中の憂さ晴らしか?
…いや。前はそうだったけど、今は少し違うな。
何がどう違うかなんて、わかんねえけど。

「理由なんて、ねえよ。やりたいから、やってるだけだ」
「…だろうね」
また、俺の顔を見てまぶしそうに微笑む。
調子狂うなあ。これがバカにして笑ってんなら、一発ぶん殴ってや……れねえか、病人だもんな。
仕方がねえ。
「おじさんが治ったから、響の目的は果たしたんだよな。…よかったな」
「…いや」
「え?」
訊きかえすと、響はふいに真剣な顔をした。
「それだけじゃない。たぶん、きみと同じ理由」
「へぇ…? まあ、いいけど」
「ボクシングがやりたいから」
「あっ」

そうだった。スコ・ヘルにケンカ売られて熱くなってたせいで、忘れかけてたけど。
「思い出した?」
「ああ…。しっかし、おまえもかなり意地が悪いよな。ヘルガといい勝負してんじゃねえか?」
つい、ぼそっと文句を言うと、響は素直にあやまった。
「そういう風に聞こえたなら、ごめん。ただ、伊織くんや嵐くんには、それぞれ別の目的があるみたいだから」
「まあ…。そうだっけな」
「だから、麟童だって…。もう、用を済ませて日本へ帰っても構わないんだよ? 叔父さんに許可をもらえば、目的は果たせるんだから」
「バッカ野郎、ここまで来といて、いまさら中途半端で帰れるかよ。決勝で完全勝利をキメて、誓いの旗を揚げる。それからスコルピオンをぶっとばす。これが俺の目的だ!」
響は、優しげに微笑みながら聞いている。 やっぱ、妙だ。
「ま、旗が揚がる所が見られなくて残念だったな。その代わり、手術がんばれよ」
そう励ますと響のやつ、妙な顔で目を伏せた。
悲しげな…いや、なんだか辛そうな、とにかくシケた面。
「響…」
「……」
そうか。考えてみりゃ、こいつも…えらいよな。
自分の胸を切られて、心臓をメスでいじくり回されるなんて、思っただけでぞわーっと寒気がしてくるぜ。
しかも、それをじっと待つ時間ってのは…俺には耐えられねえ。
ケンカなら、どんなにヤバい状況でも、自分も動けるから気が楽なんだけどな。
とにかく…そうだ、なんでもいいから元気づけてやらねえと。












「おまえ、俺にケンカ売ったこと忘れてんじゃねえだろうな?」
麟童がいきなりそんな事を言い出したので、ぼくはあっけにとられた。
「え?」
「日本へ帰ったら、続きやろうぜ。リングの上でよ」


「麟童…」
ぽかんとして返す言葉もないぼくを置いて、麟童は話し続ける。
「おまえに言いたい放題言われっぱなしじゃ、こっちもおさまらねえ。けど、病人を殴るわけにもいかねえしよ。だから…おまえの病気が治ったら、勝負だ。わかったな、響」
元気づけてるつもり…かな? ああ、ほんとうに君らしい励まし方だな。
ぼくは笑って答えた。
「麟童。…もう、いいんだ」
「響」
「もう気が済んだから。今のぼくには、きみと闘う理由はない」
「……。んな…」

ありがとう。
でも、もういいんだよ。ほんとうに。


「はじめはね。きみを倒せば、何かを手に入れられる気がしてた。ずっと欲しかったもの…そう、この胸に穴が空いてるような虚しさを、満たせるものが」

この胸が苦しくなるたび――激痛に気が遠くなるたびに。
苦痛だけに全てを支配され、何も考えられなくなる。
ようやくそれがおさまると、痛みのかわりに空白が胸を満たした。
ぽっかりと空いた風穴の中には――ぼくを苦しめるばかりの、このぼろぼろの心臓だけ。
そして…焦り。恐怖。あきらめの感情。
そんなもので、この空白を埋め尽くしたくなかった。
そんなものが霞んで消えてしまうほど、強く輝きを放つものが欲しかった。
ずっと。
ずっと、それを求め続けて――

「でも、君といてわかったんだ。――それは、『手に入れる』ものじゃない。『自分の手でつくり出す』ものなんだって」

何かの目的を果たせば、生命の輝きが手に入るというものではなくて。
目的を果たすために、今この瞬間を精一杯燃えて輝くこと――そのことこそが。
ぼくが、この世に生きた証なんだ、と。



「いい目してるな、今のおまえ」
そう言って、麟童は微笑した。
「よし、響。おまえはとにかく生きることを考えろ。絶対に死ぬんじゃねえぞ」
チリッ…と胸が痛んだ。
肉体の痛みではない、けれどたまらなく辛い…痛みに。


「俺は、ひと足さきに日本へ帰ってるぜ。試合が済んだら、河井のおじさんに許可をもらって…いや、もらえなくてもだ。自力ででもボクシングやって、わからずやの大人たちにいやでも認めさせてやるぜ」
「麟童、叔父さんは…」
「ん? 河井のおじさんがどうかしたのか?」
やはり、知らないんだな。
その方が、いい。あんなことは、知らないほうが。
「叔父さんには、会ったの?」
「いや。ヘルガ先生は『いない』とか言ってたけど、意味がわからねえんだよ。響みたいにドイツ語よく知らねえしよ」
「麟童。…」
生命力に満ちた表情豊かな目を、正面から見据えて。
ひとつ深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
「ぼくにもしもの事があったら、叔父さんを頼む」
「響…」
「わかってる。頼まれたって困るかもしれないけど。今やぼく達のほうが叔父さんの世話になってるんだしね。けど…けど、叔父さんは…」
「……」
「きっとショックを受けると思う。それで病気が再発して、何もわからなくなったら…もし、ぼくのせいでまた、そうなったら…。もう、ぼくはどうすることもできないんだ。だから…」

パシッ。
いきなり、肩を軽くはたかれた。
「しっかりしろ」

「…麟童」
「考えすぎなんだよ、おまえ。…ったく、芸術家ってのは繊細だからなあ」
「…ごめん。きみに甘えてるな、ぼくは」
「バァカ! ほんとにわかってねえな、おまえ」
ひょっとして…怒ってる、麟童?
しかも、かなり本気で。

「頼まれなくたって、病気のおじさんを放っとくかよ。こっちにゃヘルガ先生だっているし、今のおまえが心配することじゃねえ。それより」
ガシッ、と痛いほど肩をつかまれる。

「おまえの大切な叔父さんだろ? おまえが自分で面倒見てやらねえで、どうすんだよ」

痛い。


痛いよ、麟童。
肉体じゃない…心が。












しまった…また突っ走っちまった。
「…すまねえ」
痛みに歪む響の顔に気付いて、わしづかみにした肩から手を離す。
パジャマ越しの体は、ぎょっとするほどひ弱な感触だった。嵐やイヨリと全然違う。
こいつ…病人だったんだ。しかも、今から大きな戦いに臨もうとしている…。
「…おまえも。大変だったよな」
「いや…」
「おじさんのことは心配すんな。おまえは、おまえの戦いを精一杯やれ。俺は俺の戦いをやるからよ。――おたがい、勝ってまた会おうぜ」


俺は全然わかっていなかった。
この時、自分がいった言葉に、どんな意味が含まれていたか。

「ありがとう。麟童」

そう言った響の表情――
何か吹っ切れたような、透きとおった微笑の意味も。






そして…俺は負け、あいつは勝った。






あのとき、俺と嵐が…無様にぶっ倒れていなければ。
イヨリのやつが、もうしばらく会場に残っていれば。

灯りが消えたままの、おじさんのアパートで。
静かな、暗い部屋に座って…何度そんな無意味な事を思ったか。

いや…
それでも、止められなかったろう。
誰にも、あいつの大切な叔父さんにさえも。





――麟童…きみと出逢えて、よかった。


あれから病室を出ようとした俺の背中に、あいつは言った。
照れくさくって、聞こえなかったふりをしちまったけど。




もう永遠に言えやしねえ、伝えそこねた言葉――




響…おまえ。
俺が、生まれてはじめて出逢った…
友達、だったんだよ。















2003.1.11.02.24UP


<筆者妄言>
こっそり、響と麟童の組み合わせを推奨しておりますv
…自分ではこれが精一杯(^^;)

★TOP★>>>
★BACK★>>>