]T 魔手



気がつくと、東京へ向かう列車に乗っていた。 
貴子は、いつか来たことのある道を早足で歩いている。
月島の大村ボクシングジムへ――
竜児はすでに出てしまったあとだろう。ひょっとすると、もう闘いが始まっているかもしれない。
――いまさら、すべてを話してどうなるというんだろう。
けれど、どうしても菊に会って話しておきたかった。
――姉として、今わたしができる事は、それだけなのだから。


「よく…よく話してくれたっちゃ、河井さん」
阿修羅一族の正体と、目的。
河井家の事情と、武士が実の弟ではないこと。
――武士が、高嶺くんと闘わねばならない理由。
貴子が知っているすべてを話すと、菊は頭をさげた。
「今頃こんなことを話しても、どうにもならないでしょうけど――」
貴子がいうと、菊は首を横に振った。
「そんなことない。弟を信じて待っていてやる――その気持ちが、大切なんだ」
そう…きっと、それが。
今ひとりきりで闘っている弟にとっても――。
「それより菊さん、なにか急いでいることがあったのではなくて?」
「あ…。ああ… 実は…」
菊の手には、先ほど届いたばかりの電報が握られていた。
――ハハキトク スグカエレ――
「急がなくては、菊さん…すぐに駅へ行きましょう」
貴子がうながして、公園のベンチを立とうとした時。
「他言無用と言っておいたはずだ」
大きな男が、いきなり前に立ちはだかった。
ふたり…いや、三人…四人。
みな数珠のような首飾りと、装飾のはいった腕輪を身につけている。
「なんだ、こいつら…」
ただならぬ気迫に菊が身構えたとき、貴子が叫んだ。
「あ…阿修羅…!」
阿修羅の男たちは、まわりを取り囲むように近づいてくる。
「来い、貴子。掟を守れぬときは、おまえを連れてゆくのが河井家との約束だ」
「そうだ、われら一族の巫女( みこ) としてな…」
ハッ、と貴子の頭にひらめくものがあった。
――では…では、まさか…。
ジャリッ――
「巫女…? こいつら何を言ってるんだ…?」
「菊さん、逆らってはだめ…。かれらは不死身の…」
その腕を、阿修羅の男がつかもうとした時。
ドムッ――
菊の繰りだした右ストレートが、みぞおちに決まる。
鈍い音とともに、男はうめきを上げて地にうずくまった。
「不死身だろうがなんだろうが、女に力ずくで言うこと聞かせようなんてヤツの言いなりになることは
ないっちゃ」
「う…この女ァ」
バキィッ、と音をたてて菊のフックが炸裂した。
飛び込んできた阿修羅は、反動でふっ飛ばされる。
「こいつらはザコだ。力まかせに拳を振りまわしてるだけの…な。影道に比べると、何の手応えもない」
ザッ…
別の阿修羅が、菊の背後からつかみかかる。
グシャァッ――
鈍い音がした瞬間。
ドオッ… と地響きをたてて、貴子の鋭いアッパーカットを食らった阿修羅が後ろに倒れた。
「わかったわ、菊さん」
最強の弟たちを育てた姉ふたりは、目と目でうなずきあった。
倒れた阿修羅たちが、口元を拭きながら立ちあがる。
「う… つ、強い…!」
「あせるな。しょせん女の力で我らにかなうはずがない」
貴子と背中あわせに身構える菊が、取り囲む阿修羅たちに向かって言った。
「筋肉バカのからっぽのオツムじゃわかんないだろうけどな。基本がなっちゃいないんだよ、あんたら」
襲いかかる男たちに、菊と貴子の拳が的確にヒットする。
「スピード! バランス! タイミング! これが決まれば、パンチは何倍もの破壊力を生む」
バキイッ――!!
「――それが、ボクシングだァ!」
ズシイィ…ン……――。
ようやく地面にのびた阿修羅たちを見下ろして、菊は額をぬぐった。
「ザコにしちゃ打たれ強いやつらだったな…。このぶんだと竜児の相手は…」
その背後で、黒い影がむくっと起きあがった。
「菊さん、後ろ!」
ハッ、と殺気に気づいた時――
阿修羅の拳が、うなりをあげて菊を襲った。
ドコオッ――

「……あ…」
菊は、目を見開いた。
背後の阿修羅を思いっきり殴り飛ばして――
そこに、立っていたのは。
「け… 剣崎…!」
「フッ…少し気になったんで来てみたが――」
剣崎は、ざっとあたりを見回して言った。
「――この様子じゃ、心配するほどの事はなかったみてえだな」
その小脇にかかえた宝石箱に、菊は目をとめた。
――まさか…。
いや、あれは二年前に…西のはるかな海の底に沈めたはずだ。
あの、まわりに死闘を巻き起こさずにはいられない、不吉な物は。
「剣崎…。それは…」
「ああ、これからちょいと野暮用( やぼよう) でな。こいつを竜に届けてやらなくちゃいけねえ」
剣崎の言葉に、菊は悟った。間違いない。
――カイザーナックル――。
「このオレに、ガキの使いみてえな事させるのは気にくわねえが… わざわざギリシアから来た客に
頼まれたんじゃ、しかたがねえ」
「剣崎…」
目と目があう。
菊は、とめることができない。
その刹那、貴子はふたりの間柄( あいだがら) を理解した。
(では…菊さん、あなたは…)
「おっと、忘れるところだったぜ。おめえにはこれだ…ほらよ」
剣崎はポケットから小さな箱を出すと、無造作に投げてよこした。
菊がキャッチするのを見届けもせず、背を向けて歩き出している。
「気にくわなけりゃ、ドブ川にでも捨ててくれ」
菊は、そっと小箱を開けた。
中には指輪が光っていた。



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