U 阿修羅の里




車窓に、叩きつけられた雨のしずくが流れている。
高速自動車道から見える景色は、変わりばえのしない灰色の防音壁ばかりだ。
(どこまで来たんだろう)
外をながめながら、ぼんやりと武士は思った。
紀州の総本山へ向かうと聞いたが、標識の見知らぬ地名を見ても、さっぱりわからない。
――そして、どこへ行くんだろう、ぼくは。
「孔士。…おい、孔士」
自分のことを呼ばれているのだ、と気付くまでに、しばらくかかった。
「あ…ああ。なんだ、凄牙」
「そろそろ、自分の名くらい覚えたらどうだ」
微笑する凄牙に、武士はふと顔を曇らせた。
「キミにも、育ての親につけてもらった名があるんだろう」
「ああ」
「帰りたい、と…思ったことはないのか」
「一族の里での暮らしに慣れれば、そんなことは忘れるさ」
武士は思わず凄牙の顔を見つめた。本心から出ているようだ。
「それに、帰りたいと思ったとしても、どうなるものでもあるまい」
「そう…だな…」
姉の手紙を思いだし、武士はうつむいた。
『今まで黙っていてごめんなさい。
武士は、河井家が阿修羅一族からあずかり育てた子です。
迎えが来てしまった以上、もう会うこともできないでしょう』
たとえ、実の肉親でなかったにせよ。
こんなにも簡単に、家族としての絆を断ち切れるものか。
自分の生きてきた十六年間が――今まで信じてきたものが、跡形もなく崩れ去ってゆく思いがした。
拳をまじえ、共に戦った真友たち。
なかでも、ひときわ澄んだ目をして、ひたむきにボクシングの道を駆けている男がいた。
愚かしくさえ思えるほどの優しさを持っていた、忘れがたい友。
(高嶺( たかね)くん…)
真っ先に浮かんだ友の名に、武士は頭を振った。
一緒に暮らした家族でさえ、こうなのだ。まして、他人である友人など。
沈みこんだ武士に気をつかってか、凄牙が妙に明るい調子で話しかけてきた。
「お前もすぐに慣れるよ。普通では経験できないようないい事もあるしな」
「いい事…?」
「それは里へ着いてから話そう。ひとつ言えることは、阿修羅の里では世間と全くちがった価値観で
  暮らしているということだ」
「『里』に行けば、実の両親に会えるのか?」
「残念だが、『里』にいる阿修羅は二十歳前後までの男子だけだ。…」
凄牙は武士に阿修羅の里についておおまかな事を話して聞かせた。

阿修羅は『草』と呼ばれる一族の末裔であること。
一族をあげて『ある密命』を果たすために、戦闘訓練を行う『里』をつくっていること。
一族の男子は、たいてい幼い頃から格闘術をはじめ、十歳ごろから各地の『里』での訓練に加わる。
いざという時のための戦闘要員として、戦士の資格を持つのは二十歳ごろまで。
若く、もっとも肉体能力の高い時期に限ることで、精鋭の戦士を集めるのが目的である。
その後は『里』を下りて一般世間に根づき、『草』としての使命を果たす。
すなわち、『その土地の人間として、妻をめとり、子を育てる』のだ。
その『草』の子のうち、男子は幼い頃から格闘術をはじめ、十歳ごろから『里』へ通い…。

「阿修羅は、子を自分で育てないのではないのか?」
「今いったのは、一般の戦闘要員の話だ。オレたちのように、不死身の戦士となるべく生まれた阿修羅は
 少しちがう。実の両親など、いないのだ」
「いない…とは?」
「じきにわかるさ」
「『ある密命』とは、いったいなんだ」
「それも、じきにわかる」
凄牙は肝心のことを言おうとしない。



三重の山奥で車を下りた頃は、深夜になっていた。
車の持ち主らしい運転手はついに一言も口をきかないまま、来た道を去っていった。
あの男も、この地元の『草』らしい。
「ここが、阿修羅一族の本陣だ」
大きな門をくぐり、山道につけられた石段を上ってゆく。
いくつ、門をくぐったろう。
大きな寺院のような建物に、松明( たいまつ)の灯が掲げられている。
その扉の前で、凄牙は足を止めた。
「孔士、お前にはこの聖堂でしてもらう事がある。われら阿修羅一族に加わるための儀式だ」
ギィ――
重い音をたてて、扉が開く。
「う…!」
異様な雰囲気に、武士は息を呑んだ。
正面の奥には、大きな阿修羅像が安置されていた。
薄暗い堂内では、その像がすさまじい形相でこちらをにらみつけているかのように見える。
すぐ前に、白っぽい布をかけた祭壇らしきものがある。
その手前の床に、阿修羅の戦士とおぼしき若い男が円陣を組んで座っていた。
その数――およそ、十人。
いずれも、そうとうの使い手であることが、武士には一目でわかった。
「きたか、孔士」
男たちのさぐるような視線が、いっせいに武士に向けられている。
――この男が、戦士としてどの程度のものか。
値踏みするような、しかもどこか陰気で粘りつくような視線である。
おせじにも、いい雰囲気などと言えるものではない。
凄牙が紹介した。
「ここにいるのは、阿修羅のなかでも最強の戦士たちだ」
その瞬間。
ヒュッ――
殺気が頬をかすめる。
とっさに身構えた武士の拳が、黒い影にかすった。
首飾りがはじけ、珠の飛び散る音。
ビシッ!……ザシャァッ――
一瞬の出来事だった。紙一重でかわさなければ、阿修羅の拳を顔面に叩きこまれていただろう。
「なんだ、これは。阿修羅は、同族の者にもこういう歓迎のしかたをするのか」
「邪鬼( じゃき)!」
凄牙に怒鳴りつけられた黒い影が、暗がりから姿をあらわした。
「さすがに『黄金の日本Jr.』と呼ばれただけのことはあるな」
「くだらん悪戯はよせ、邪鬼」
「そういうが、凄牙。せっかく探しあてた孔士が使い物にならぬ男では、わざわざ仲間にする意味もあるまい」
クッ…と奥に座っていたスキンヘッドの阿修羅が笑った。
「その時は、人質として働いてもらえばいいだけの話よ」
「人質? …どういうことだ」
武士がふたたび身構えた時、凄牙が叫んだ。
「闇法師( やみほうし)! 邪鬼も、何を言うのだ。いきさつはどうであれ、孔士は血で結ばれた我ら一族の仲間だろう」
「言い争いはよしたまえ。孔士が戸惑っているでしょう」
細身の阿修羅が、優雅な身のこなしで立ちあがった。
(女…? 阿修羅にも女性がいたのか?)
「見苦しいところをお見せしてすまない。さあ、これを」
歩み寄ってきた細身の阿修羅は、手にした木製の杯( さかずき)を武士に渡した。
ワイングラスほどの大きさで、中は真紅の液体がなみなみと注がれている。
「申しおくれたが、わたしは妖鬼豼( ようきひ)
いや…女性と見まがうほど美しい顔だちをしているが、やはり男だ。
「これを飲みほせば、キミは正式に阿修羅の一族として認められるのだ」
「フ…固めの盃( さかずき)というわけか。さすがに古風だな」
武士は杯に目をおとした。
飲みなれたワインとは違って、すこし粘り気のある、まったく不透明な暗赤色の液体。
酒…では、ないようだ。
アルコール特有の香気がせず、かわりに鉄くさい匂いが鼻をついた。
鉄…? まさか。
「これは…血か!?」



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