T 別離



「はあ、はあ…」
――信じられない。
走りながら、武士( たけし) は思った。
――ぼくが…ぼくが、阿修羅( あしゅら) 一族の人間だなんて。
突然、音楽部の部室に現れた男はそう告げた。
「お前を迎えにきたのだ、孔士( こうし)
青天の霹靂( へきれき)だった。
阿修羅一族の者、と名乗った男の身のこなしには、スキがなかった。
格闘技を修める者だけが持つ、殺気めいた気迫。
二年前にボクシングを辞めて以来、武士が忘れかけていた感覚を呼び覚ますには充分すぎるほどだった。
――この男と関わってはいけない。
そんな気がした。
が、男が耳打ちした言葉は、あまりにも衝撃的なものだった。
気がついた時には、激情のままに拳を振るっていた。
二度と振るうまいと決めていた、拳を。
武士の渾身の力をこめたブローを食らった男はあっけなく吹っ飛んだ。
「帰れ! そして、二度と近づくな!」
「ムダだ、孔士…これは、お前が生まれおちた時からの運命だったのだ…」
うめくと、男は血ヘドの海に突っ伏した。
(いったい、何だというんだ…)
混乱した頭をかかえて、武士は立ちつくした。
自分が、実の親兄弟の家の子ではないなどと突然言われて、信じられるものではない。
(これは、悪夢か)
ちがう、まぎれもない現実だ。
男を殴り飛ばした時の、いやな感触がまだ拳に残っている。
グシャッ――顎の骨が砕けるような音がした。
無理もない。
二年前のワールド・グラブ・カップで、全世界を震撼させた「河井武士のジェットアッパー」。
その必殺ブローを、ろくな防御もせず、まともに受けたのだ。
ボクサーの拳は、凶器だという。
その凶器を激情にまかせて振るってしまった重苦しい後悔が、胸を満たした。
(とりあえず、手当てをしなければ。この男が何者であれ…)
武士は倒れた男に歩み寄ろうとした。
その時――
男は、立ち上がった。何もなかったかのように。
「フ…フフ…。阿修羅一族は不死身の肉体を持っている」
「な、何…!」
背筋に冷や汗が流れた。
「…そして、その血はお前にも流れているのだ、孔士」
「まだ、そんなデタラメを言うのか…!」
「嘘だと思うなら、河井家の者に訊いてみるがいい」


「ねえさん!」
玄関の戸を開け放したまま家に駆けこむ。
雰囲気が、いつもと違う。
がらんとして、出迎えてくれる書生の姿も見えない。
この時間なら聴こえるはずの、姉の弾くピアノの音もない。
――気のせいだ。ねえさんに会えば…。
(妙な人を相手にするなと言っているでしょう、武士)
そんなふうに、厳しい顔でたしなめてくれるはずだ。
そう。きっと、いつものように。
階段を駆けあがり、ピアノ室の重い防音扉をあける。
…いない。
姉の部屋の前でややためらったあと、ドアに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
…ここにも、いない。
いれば、すかさず叱声と平手が飛んできたはずだ。
(何ごとなの? 女性の部屋をノックもなしに無断で開けるなんて)
「フッ…」
武士は唇の端に微笑をうかべた。
どうかしている。
時々うっとうしく思うこともある、姉の叱言を今すぐ聞きたいと思うなんて。
きっと、急な用事で出かけたんだろう。すぐ戻るに違いない。
だからといって、どこにも鍵をかけないのは無用心だけど。
カチャッ――
ドアの音に振りかえる。自分の部屋の方向だ。
そこに…
姉が、蒼白な顔で立っていた。
「ねえさん――」
勝手にぼくの部屋に入らないでって言ってるだろ。もう子供じゃないんだから。
そう言いたいのに、言葉が続かない。
「武士…」
「嘘…だろう? ねえさんも知らないよね、阿修羅なんて――」
「……」
「どうして黙ってるの? なんとか言ってよ、ねえ…」
「…ごめんなさい、武士」
姉の目から、滅多に見せない涙がはらはらとこぼれ落ちた。
「今日かぎりで、わたしたちは姉弟ではないの」
「なにを言ってるんだ、ねえさん? ちゃんと説明してくれよ」
耳を貸さず、姉は小走りに階下のほうへ立ち去った。
「…待ってよ、ねえさん!」
ガラガラ、ピシャン――姉が玄関から出て行く音を、武士は呆然として聞いた。
自室に入ると、置き手紙が目に止まった。
手に取り、姉のきちょうめんな字に目を走らせる。
武士の手が震え…
はらりと、床に手紙が落ちた。
「気がすんだか、孔士」
いつの間にか、背後に立っていた男が声をかける。
部室に現れたのとは別の、同じような服装をした少年だ。
「オレの名は、凄牙( せいが)
阿修羅の少年は名乗った。
「さあ、行こう。オレたちの一族、阿修羅の里へ」



★END★
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